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武田家

武田信玄 たけだ しんげん (1521~1573) 武田家
 甲斐武田家16代当主。信虎の子。諱は晴信、出家して信玄と号した。「甲斐の虎」の異名を持つ戦国時代屈指の名将で甲斐、信濃、駿河を支配した。幼少から父・信虎に疎まれ、家督を弟・信繁に継がせようとする動きがでてくると、重臣・板垣信方甘利虎泰らと謀って信虎を追放して当主となった。当主となってからは積極的に信濃へ侵攻。諏訪家、村上家、小笠原家らを滅ぼしてこれを平定した。しかし、村上義清ら生き残った者たちが越後の上杉謙信を頼ったため、これが引き金となって5度にわたる川中島の戦いに発展。第四回の時は謙信との一騎打ちの逸話が生まれるほどの激戦となった。駿河の今川義元、相模の北条氏康とは同盟(甲相駿三国同盟)を結んで南と東の備えとしていたが、桶狭間の戦いで義元が討死して今川家が衰退し始めると、同盟を破棄して駿河へ侵攻した。織田信長が中央で勢力を増してくると足利義昭の要請に応えて包囲網に参加。信長の同盟者・徳川家康三方ヶ原の戦いで破って上洛への勢いを見せるが、三河野田城攻略後に度々喀血するようになり、軍を甲斐へ引き上げる途中で亡くなった。

<辞世の句>
 大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ずから風流

<孫子より>
 其の疾きこと風の如く 徐なること林の如く 侵掠すること火の如く 動かざること山の如し
 


武田勝頼 たけだ かつより (1546~1582) 武田家
 信玄の四男。母は側室・諏訪御料人。はじめは諏訪家を継ぐ予定であったが、長兄・義信が自害、次男は盲目、三男は早世していたため、信玄の遺志を継ぐことになった。しかし、信玄の遺言で、勝頼の子・信勝が成人するまでの繋ぎ役とされ、正式な当主ではないという曖昧な立場が、勝頼の側近を含めた諏訪衆と信玄以来の宿将らとの確執に繋がったといわれる。家督継承当初は遠江高天神城の攻略など、勢いをみせていたが、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗し、馬場信春山県昌景ら多くの重臣を失うと次第に勢いをなくす。さらに、上杉家の家督継承問題(御館の乱)への介入失敗で今まで友好的であった北条家とも対立することになり、周辺諸国のほとんどを敵に回すことになった。その状況のなか、一門であった木曽義昌が織田家に内応。これをきっかけに織田・徳川の侵攻を許し、次々と家臣が離反していくなか、最後は信頼していた小山田信茂にも裏切られて行き場を失い、天目山で自害した(甲州征伐)。


武田信廉 たけだ のぶかど (1532?~1582) 武田家
 信虎の三男。信玄信繁の同母弟。画家としても名を馳せ、信玄の影武者をつとめたという。次兄・信繁が第四次川中島の戦いで討死すると、親族衆筆頭となり、南信濃の重要拠点、高遠城、飯田城、大島城の城代を任された。織田・徳川による甲州征伐が始まると、大した抵抗もせず甲斐へと引き上げた。武田家滅亡後、残党狩りによって捕らえられ処刑された。


武田信繁 たけだ のぶしげ (1525~1561) 武田家
 信虎の二男。信玄の同母弟。父・信虎に愛され、一時は家督を継ぐ動きもあったが、兄・信玄に従って信虎追放に加わった。信玄の信頼厚く、信濃攻略などで活躍した。信玄の名代として全軍を率いることがあるほどの将器の持ち主であったが、第四次川中島の戦いで危機に陥った本陣を守るために敵軍に突入して討死した。江戸時代に入っても「まことの武将」と評されるほどの人気があり、信繁が生きていれば、信玄と信玄の嫡男・義信の確執が大きくなることはなかったであろうといわれている。また、真田幸村の本当の名は信繁と伝わっているが、これは幸村の父・昌幸が信繁の武勇にあやかって名付けたものだという。


武田信虎 たけだ のぶとら (1494?~1574) 武田家
 甲斐武田家15代当主。信玄の父。常に陣頭にたつ猛将で、分裂状態であった武田家を統一し、拠点を甲府に移して躑躅ヶ崎館を建設した。その後、甲斐の平定も成し遂げるが、その過程は家臣や民に負担を強いる戦闘の連続であったため、人心が離れていったといわれる。その人気のなさと、溺愛していた次男・信繁への家督相続の動きを信玄につけ込まれ、娘婿・今川義元のもとへ追放された。以後30余年、諸国を放浪することになるが、甲斐の地を踏むことは二度となかった。


武田義信 たけだ よしのぶ (1538~1567) 武田家
 信玄の嫡男。母は正室・三条の方。甲相駿の三国同盟が成立した際に今川義元の娘を正室として迎えた。勇猛果敢で、信濃国佐久郡での戦いや第四次川中島の戦いで活躍したという。しかし、桶狭間の戦い後、駿河侵攻をめざす父・信玄と対立する。1565年、信玄の暗殺を企てたとして幽閉され、2年後に幽閉先の東光寺で亡くなった(自害とも)。


一条信龍 いちじょう のぶたつ (1539?~1582) 武田家
 信虎の八男(九男とも)。信玄の異母弟。武田二十四将のひとり。文武に長けた武将で軍事・外交で活躍。信玄の遺言で勝頼の後見もつとめた。長篠の戦いでは佐久間信盛隊に向かって突撃して二重の柵を破る猛攻を見せ、退却戦では馬場信春とともに最後まで戦場に残り、勝頼退却を確認したのち無事離脱している。甲州征伐が始まっても勝頼に忠節を尽くし、最後は徳川家康率いる三河勢と戦って討死した。


仁科盛信 にしな もりのぶ (1557~1582) 武田家
 信玄の五男。母は側室・油川夫人。同母妹に上杉景勝の正室なった菊姫がいる。信濃国の有力国人・仁科家の養子となり家督を継いだ。父・信玄死後は異母兄・勝頼に仕え、1581年に高遠城主となる。一門・木曽義昌の内通がきっかけで織田・徳川による甲州征伐が始まると、武田方の諸城が簡単に逃亡、降伏するなか、唯一頑強な抵抗をみせ、織田信忠率いる3万(5万とも)の軍勢を相手に3千たらずで奮戦し自害した。


浅利信種 あさり のぶたね (?~1569) 武田家
 武田家臣。母は武田信虎の妹とされる。槍働きだけでなく奉行としても活躍し、武田家が西上野を支配すると箕輪城代となって西上野衆を率いた。1569年、駿河侵攻の妨げとなった北条氏康を牽制するため、信玄に従って小田原攻めに参加する。しかし、小田原城は落とせず、甲斐への撤退途中で行われた三増峠の戦い北条綱成に討ち取られた。


穴山信君 あなやま のぶきみ (1541~1582) 武田家
 武田家一門。信玄の甥で娘婿。梅雪の号で知られる。駿河侵攻戦では先陣をつとめて活躍した。長篠の戦いにも参加しているが、決戦には反対していたといわれ、戦闘が始まってもたいした働きもしないまま撤退した。その後、長篠の戦いで討死した山県昌景の後任として江尻城主となり、駿河国衆の統括にも関与したが、徳川家康が駿河に侵攻してくると、いち早く恭順を示し、武田家滅亡後も所領は安堵された。その礼として徳川家康と共に上京した際に本能寺の変に遭遇する。家康とは別行動で帰国を目指すが、土民に襲撃され亡くなった。


秋山虎繁 あきやま とらしげ (1527~1575) 武田家
 武田二十四将のひとり。「武田の猛牛」の異名をもつ猛将。名は信友と呼ばれることもある。信濃・諏訪家攻めで初陣を飾り、その後、伊那郡攻略で活躍、高遠城代を経て飯田城代となる。西上作戦では別働隊を率いて美濃に侵攻、岩村城を落城させ、城主・遠山景任の未亡人(信長の叔母)を妻に迎えて岩村城主となり、織田家に睨みをきかせた。しかし、1575年に武田勝頼長篠の戦いで大敗北を喫すると、逆に織田軍の猛攻を受けることになる。援軍なく、やむなく降伏するが、妻と共に捕らえられ長良川で磔の刑に処せられた。


甘利虎泰 あまり とらやす (1498~1548) 武田家
 武田二十四将のひとり。信虎信玄の二代に仕えた侍大将。家中第一の武辺者といわれ、信玄の軍師・山本(勘助)晴幸も見事な采配ぶりを感嘆したという。信玄による信虎追放事件では板垣信方飯富虎昌と共に信玄に協力し、信玄が武田家当主になるのに貢献した。その後、板垣信方と共に宿老として重用され、佐久郡攻略戦で活躍したが、北信濃への侵攻で参加した上田原の戦い村上義清の猛攻を受け討死した。


板垣信方 いたがき のぶかた (1489~1548) 武田家
 武田二十四将のひとり。信虎信玄の二代に仕え、信玄の守役をつとめた。信玄による信虎追放事件では主要な役割を果たしたといわれる。甘利虎泰と共に宿老として重用され、諏訪家攻略で活躍、上原城代となって諏訪郡、南佐久郡の支配を任された。その後、北信濃侵攻戦に参加、上田原の戦いで先鋒をつとめて奮戦したが、深入りしたところを村上義清の反撃をうけて討死した。信方討死の報は村上軍の士気を高め、武田軍は信方ほか、甘利虎泰ら多くの将を失う大敗北となった。


小幡虎盛 おばた とらもり (1491~1561) 武田家
 甲陽五名臣、武田二十四将のひとり。信虎信玄の二代に仕えた。「よくみのほどをしれ」の遺言で有名。生涯36回の合戦に出て36枚の感状を貰った勇将で、体にも41ヶ所の戦傷があり「鬼虎」と称された。信虎のもとで甲斐統一戦や甲相駿三国同盟以前の今川、後北条家との戦で活躍し、信虎追放後も信玄のもとで活躍した。晩年には高坂昌信の副将として海津城に入り、上杉謙信の抑えとなった。


飯富虎昌 おぶ とらまさ (1504~1565) 武田家
 武田二十四将のひとり。山県昌景の兄(叔父とも)。信虎信玄の二代に仕え、信玄による信虎追放事件では板垣信方らに協力して信玄擁立に尽力した。戦いでは精鋭部隊「赤備え」を率いて常に先陣で活躍、信濃攻略後に小諸城代となる。信玄の嫡男・義信の守役をつとめたが、駿河侵攻をめぐって義信が信玄と対立、義信が謀反を企てたことから連座して切腹した。その後、「赤備え」は昌景が引き継いだ。


小山田信茂 おやまだ のぶしげ (1539~1582) 武田家
 武田二十四将のひとり。信玄勝頼二代に仕えた。小山田信有の二男だが、兄の病死をうけて家督を継ぐ。駿河侵攻戦、西上作戦で活躍、長篠の戦いにも参加した。織田信長による甲州征伐が始まり、信長の嫡男・信忠率いる織田勢が迫ってくると、勝頼に岩殿城への撤退を勧めるが、勝頼の撤退中に離反して自領への立ち入りを拒否した。その結果、行き場を失った勝頼は天目山で自害する。勝頼死後、信長への謁見を望んだが、信忠に不忠を咎められ処刑された。


高坂昌信 こうさか まさのぶ (1527~1578) 武田家
 武田二十四将のひとり。武田四名臣のひとり。正しい名は香坂虎綱、春日虎綱といわれる。撤退戦を得意としたことから「逃げ弾正」の異名をとった。信玄の奥近習を経て使番、侍大将と出世し、信濃攻略後は小諸城代、次いで上杉家の備えとして築かれた海津城代をつとめた。第4回川中島の戦いでは馬場信春と共に別働隊の大将として出陣。西上作戦でも活躍した。長篠の戦いの時は上杉家への備えとして留守を任され、大敗の報を聞くと勝頼を迎えて凱旋を装わせ、領民の不安を煽らないように配慮した。その後も四名臣最後の生き残りとして武田家ために尽力。上杉家で家督継承問題(御館の乱)が起こると上杉景勝と勝頼の間をとりもって甲越同盟を締結させるが、その直後に病没した。


多田満頼 ただ みつより (?~1563) 武田家
 甲陽五名臣のひとり。美濃国の出身で弓矢修行で甲斐を訪れた際に武田信虎に仕えることになった。信虎、信玄の二代に渡って足軽大将として活躍し、信玄の信濃侵攻では小笠原長時と戦って武功を挙げ信玄から感状を受けた。第四次川中島の戦いのときには既に病床にあり、2年後の1563年に亡くなった。信濃国の虚空蔵山の砦を警護していたときに「火車鬼」という妖怪を退治した伝説がある。


土屋昌続 つちや まさつぐ (1545~1575) 武田家
 武田二十四将のひとり。信玄勝頼の二代にわたって仕えた。父・金丸筑前守が板垣信方と共に信玄の守役をつとめたことから、信玄の奥近習として仕え始めた。第四次川中島の戦いで初陣を果たし、のちに武田家の譜代家臣・土屋家の名跡を継いだ。その後も西上作戦に参加して三方ヶ原の戦いなどで活躍したが、信玄の死後、勝頼に従って参加した長篠の戦いで、敵の三重の馬坊柵を二重まで突破する猛攻を見せるも、銃弾を受け討死した。


土屋昌恒 つちや まさつね (1556?~1582) 武田家
 武田家臣。昌続の弟。信玄勝頼の二代にわたって仕えた。長篠の戦いで兄・昌続が討死したたため家督を継いだ。織田、徳川による甲州征伐が始まると、次々と寝返る者が出るなか、勝頼に最後まで付き従い、勝頼が自決する時間を稼ぐために奮戦し討死した。その際、崖から落ちないように蔦をつかみ、片手で太刀を振るって敵を道連れにしたことから「片手千人斬り」の伝説として後世に伝わった。


内藤昌豊 ないとう まさとよ (1522~1575) 武田家
 武田二十四将、武田四名臣のひとり。本当の名は昌秀といわれている。父が信玄の父・信虎に誅殺されたため、逃亡して諸国を流浪していたが、信玄によって信虎が追放されると帰参した。特に西上野攻略戦で活躍し、箕輪城代・浅利信種三増峠の戦いで討死すると、その後任として西上野の経営を任された。外交でも活躍し、相模の北条氏康が亡くなると、後を継いだ氏政と折衝を行い甲相同盟を成立させている。信玄死後も勝頼に仕えるが、他の老将ともども疎まれたといわれる。長篠の戦いでは馬場山県らと共に決戦には反対したが容れられず、自殺行為同然の突撃をして討死した。


馬場信春 ばば のぶはる (1515~1575) 武田家
 武田二十四将、武田四名臣のひとり。信房の名で呼ばれることもある。甲州流築城術の名手として知られ、多くの戦に参戦しながら無傷であることが多かったため「不死身の鬼美濃」と呼ばれた。はじめは教来石景政と名乗り、信玄の父・信虎の代から仕えていたが、信虎にはあまり重用されなかったという。信玄が当主となってから徐々に頭角をあらわし、信玄の勧めで名家・馬場家の名跡を継ぐ。第四次川中島の戦いでは別働隊を率いて上杉謙信の本陣・妻女山を奇襲するが見破られていたため、すぐさま山を下りて信玄の救援に駆けつけ大敗を防いだ。西上作戦でも活躍。三方ヶ原の戦いでは山県昌景と共に徳川家康をあと一歩のところまで追い詰めた。信玄死後も勝頼に仕えて補佐したが、他の老臣共々疎まれたという。長篠の戦いでは山県らと共に撤退を主張するが容れられず、大敗が濃厚になると、最後まで戦場に残り、勝頼が撤退する時間を稼いで討死した。


原虎胤 はら とらたね (1497~1564) 武田家
 武田二十四将、甲陽五名臣のひとり。もとは下総国千葉家の一族。信虎信玄の二代に仕えた勇将で城攻めを得意とし「鬼美濃」「夜叉美濃」の異名をとった。主に信濃小笠原家との戦いで活躍している。1561年、信濃割ヶ嶽城攻略の際に負傷し、同年に行われた第四次川中島の戦いには参加できなかった。以後は一線から身を引いたといわれる。死後、四名臣のひとり・馬場信春が虎胤の武名にあやかって美濃守の官位を継承したといわれている。


保科正俊 ほしな まさとし (1511~1593) 武田家
 武田家臣。優れた槍の使い手であったため「槍弾正」の異名をとった。はじめは信濃高遠城主・高遠頼継に仕えたが、頼継が武田信玄に敗北して事実上幽閉されると武田家臣となる。信濃先方衆のひとりとして各地を転戦して武功を挙げ、西上作戦では高遠城の守備を任された。武田家滅亡後は、徳川家に仕え、石川数正の出奔に呼応して兵を挙げた小笠原貞慶5千の軍勢を四百で迎え撃ち大勝した。


山県昌景 やまがた まさかげ (1530~1575) 武田家
 武田二十四将、武田四名臣のひとり。飯富虎昌の弟(甥とも)。信玄の近習として仕えはじめ、のちに使番となった。信濃攻略戦で活躍して侍大将となり、第四回川中島の戦いでは上杉家随一の猛将・柿崎景家と激戦を繰り広げた。信玄嫡男・義信が謀反を企てた時には、これをいち早く察知して事を未然に防ぐが、兄・虎昌が義信の傅役であったため、自害させてしまう結果となった。虎昌死後、謀反人と同じ苗字であることを気にかけた信玄の命により断絶していた名家・山県家の名跡と虎昌が率いていた精鋭部隊「赤備え」を継ぐ。その後、駿河侵攻戦や西上作戦で活躍。三方原の戦いでは徳川家康をあと一歩のところまで追い詰め震撼させた。信玄死後も勝頼に仕えて補佐したが、疎まれていたといわれる。長篠の戦いでは撤退を主張するが容れられず、玉砕覚悟の突撃をみせ、全身に銃弾をうけ討死した。


山本勘助 やまもと かんすけ (1493~1561) 武田家
 甲陽五名臣、武田二十四将のひとり。諱は晴幸。信玄の軍師をつとめた。前半生は謎につつまれているが、諸国を巡って兵法、築城術を学んだといわれる。初め今川義元に仕官するが風貌がよくなかったため重用されず、甲斐に赴いて信玄と出会い重用された。学んだ兵法をいかして諏訪攻略戦などで活躍し、諏訪頼重の死後、のちに勝頼の母となる頼重の娘・諏訪御料人を信玄の側室にすることを勧めたといわれる。小諸城、高遠城海津城など重要拠点となる築城でも活躍したが、第四次川中島の戦いで献策した「啄木鳥戦法」が上杉謙信に看破され、信玄本陣が危機に陥ると、責任を感じて敵軍に突入し討死した。


横田高松 よこた たかとし (1487?~1550) 武田家
 甲陽五名臣、武田二十四将のひとり。近江国甲賀の出身といわれる。武田信虎の時代に甲斐入りして武田家臣となり、甘利虎泰のもとで各地を転戦して武功を挙げた。武勇の誉れ高かったが、1550年、砥石城攻めでの撤退戦で殿(しんがり)をつとめ討死する。信玄はのちに「武辺の者になるならば、原美濃(虎胤)、横田備中(高松)のようになれ」と語ったという。


依田信蕃 よだ のぶしげ (1548~1583) 武田家
 武田家臣。元の姓は芦名といった。父・信守は信濃四大将のひとりにして諏訪大社大祝でもある諏訪頼重に仕えたが、頼重が武田信玄に敗れ、信玄が信濃を支配するようになると、武田家臣となった。そのため信蕃は若い頃から武田家に仕えた。信玄、勝頼の二代にわたって仕え、甲州征伐では駿河田中城を守ったが、勝頼自害の報を聞くと徳川家康に降伏し、のち家臣となった。天正壬午の乱では信濃へ入って真田昌幸を調略するなど活躍したが、北条方の岩尾城攻略中に反撃を受け、その傷がもとで亡くなった。